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[転載]太地のジオスポット燈明崎に漂着した帰還遣唐使no吉備真備が4ケ月後に京都に到着しましたが、その間何をしていたのでしょうか?教えていただけませんでしょうか?

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太地に漂着した帰還遣唐使が4ケ月後に京都に到着しましたが、その間何をしていたのでしょうか?教えていただけませんでしょうか?
 
 
 天平勝宝5年末(753年)当時遣唐副使であった吉備真備が唐からの帰途、遭難して牟漏崎に漂着したと、続日本記に記されている。その牟漏崎とはこの岬で、ここは昔から牟漏崎、又は室崎と呼ばれていたが、寛永13年(1636年)この突端に日本最初の灯台が設けられてから灯明崎(東明崎)と呼ばれるようになった。
 吉備真備は漂着後しばらく滞在して帰京したが一族の与呂子右衛門がこの地に残り太地を拓いたと伝えられている。
 太地町教育委員会:看板文そのまま
 
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遣唐使 吉備真備漂着の浜  和歌山県太地
正にジオスポット
 
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吉備真備

吉備真備像(倉敷市真備支所
 
 吉備真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日775年11月3日))は、日本奈良時代学者政治家公卿)。正二位勲二等右大臣下道真備(しもつみち の まきび)、吉備下道真備(きび の しもつみち の まきび)などとも呼ばれた。
 
天平勝宝4年(752年)閏3月3日、遣唐使出発。
天平勝宝5年(753年)12月7日、唐より帰国の遣唐副使吉備真備ら一行の船が、紀伊国牟漏崎に漂着する。
天平勝宝6年(754年)3月、遣唐使帰朝。4月5日、大宰大弐に転任。4月7日、正四位下に昇叙。大宰大弐元の如し。
天平宝字5年(761年)11月17日、西海道節度使兼帯。
 
関連項目
  • 広峯神社(ひろみねじんじゃ) - 真備が創建した姫路市の神社。牛頭天王総本宮
  • 矢掛町(やかげ) - 真備の故郷で、吉備真備公園、右大臣眞吉備公の墓、産湯の井戸がある。
  • 真備町(まび、旧町) - 町名の由来は真備である。真備の故郷で、まきび公園、吉備真備公墳墓、吉備公館址、吉備真備公産湯の井戸がある。
  • 吉備真備駅
  • 楊貴氏墓誌 - 母とされる女性(楊貴氏)の墓誌。
東明崎に「吉備真備(きびのまきび)漂着碑」がある。奈良時代の遣唐副使、吉備真備は唐からの帰国途中、遭難して紀伊国牟漏(むろう)崎(現東明崎)に漂着したと、続日本記に書かれており漂着碑が建立された。吉備真備はしばらく太地に滞在した後、都へ帰るが、その一族の与呂子右衛門がこの地に残り、太地の地を開拓したとの伝えがある。
 
 

天平勝宝2(750)年9月任命、752年出発、大使藤原清河、副使大伴古麻呂、吉備真備(天平勝宝3(751)年11月追加任命)、同行者藤原刷雄ら、753年、754年帰国。

天平勝宝4(752)年閏3月、遣唐使12、難波津を発す
天宝11(752)年夏、遣唐使12入唐し、明州に着く。

天平勝宝5年1月1日(753/02/08)、唐の宮廷での百官有司・諸外国使臣の朝賀に古麻呂参列し、席順について抗議し、第1席を得る。

天宝12年(753)10月、鑑真に渡日を懇請する。

天宝12年10月19日(753/11/18)、[[鑑真>H0743a]]ら一行、竜興寺を脱し、蘇州黄泗浦に向かう。

天平勝宝5年11月15日(753/12/18)、4隻に分乗し、蘇州黄泗浦(こうしほ)を出発。

  • 第1船:大使藤原清河
  • 第2船:副使大伴古麻呂、鑑真
  • 第3船:副使吉備真備
  • 第4船:舵取り川部酒麻呂(かわべのさかまろ)
 

第3船

天平勝宝5年12月7日(754/01/08)益救島(やくしま、屋久島)に到着(第2船と同日)。ここを出てから漂流し、紀伊国牟漏埼(むろのさき、和歌山県潮岬付近か)に漂着。(翌年1月17日(754/02/17)に大宰府が報告)

牟漏埼は、太地町灯明崎と比定する説もある。
 
 
 
 太地の歴史は古く孝謙天皇の天平勝宝6年(756)遣唐使・吉備真備が帰朝の際、「牟漏崎(現在の太地町燈明崎)に漂着した」との記述が続日本紀に見えます。
 孝徳天皇の大化2年(646)に太地は木の国牟婁郡神戸郷に属し、その後、熊野三山を統轄する熊野別当が勢力をもつにいたって那智荘に、また元和5年(1619)、奥熊野の大半を領有した新宮藩水野氏の治下に属しました。
 明治21年の村制実施に伴い、明治22年4月1日太地村と森浦村の両村を合併して太地村と称し、捕鯨事業やマグロ漁業など、海外発展への盛況を見せ、人口の増加と共に、大正14年4月1日より町政が施行され太地町として今日に至っています。
 
 
 
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転載元: シナの恫喝に負けるな! 防災・環境・歴史・観光で平和と繁栄


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