朝鮮の歴史概説
朝鮮半島において学術的な検証が可能となる最初の国家は箕子朝鮮、ある程度実情が分かるのは衛氏朝鮮からである。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、史記等の記述や考古調査から前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に周王朝が侯国に封じたとする。
衛氏朝鮮は前194年に燕出身の将軍であった衛満が箕子朝鮮の王・箕準を追い出して建国した。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間直轄支配(南部や東部は間接支配 )されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。
4世紀中頃に、満州の鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の多くの部分を征服するが、4世紀末までに百済は高句麗により朝鮮半島半島北部から駆逐され、朝鮮半島北部は高句麗によって征服された。南部は倭と関係の深い百済と新羅が在り共に倭に従属していたが、新羅は7世紀中葉に入って日本が白村江の戦により大陸での影響力を完全に喪失する以前も、度々朝貢を怠るなど叛服常無かっ。
高句麗は4世紀の広開土王の代に、仏教を篤信するとともに、南に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。
百済は371年、漢山城(今のソウル松坡区)を都としていたが、高句麗の攻撃により落城し、扶余に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、大和朝廷に従属し、儒教や仏教を大和朝廷へ伝えた。南端部には倭国の影響下にあって(旧説では「支配下」にあったとする)諸小国の雑居する任那加羅があった。
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
しかしながら、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』によると4代目の王が倭国北東から渡来した王であったり、『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王を遣わしていた記述があるなど、朝鮮民族としての意識の形成がいつ頃から生じたものか不明瞭である。
しかし唐・新羅戦争に敗北して、自らを大唐国新羅郡と名乗った。高句麗の故地には渤海が建国されたが渤海を朝鮮の歴史で扱うか否かについては議論がある(東北工程参照)。10世紀に新羅は統一を失い、地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして南北にわたる初の統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。
高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親明を掲げる李氏朝鮮(朝鮮王朝)が高麗に代わって建国され、朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。
朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蒋英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀自)の製作、時間を表す仰釜日晷、自擊漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。
16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。
一方でハングルが専ら大衆の娯楽や通信に使われたように、この時代は官僚を輩出するエリート階層である両班を中心に中国文化の影響は依然として深く、特に王朝の国教というべき地位にあった儒教の影響は社会の末端に至るまで広く浸透していた。ハングルが漢字との混交文によって初めて公的の書き文字に採用されるのは、日清戦争が日本の勝利に終わったことで李氏朝鮮が清の冊封体制及び羈縻支配から離脱した1894年である。
1776年22代王で正祖が即位する。正祖は即位初期には洪国栄などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。
蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。
正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若や朴斎家、洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。