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[転載]新羅の賊、韓寇 、入寇

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・天智天皇7年(668年) 大化の新羅の賊
 
兵庫県朝来市赤淵神社[3]に伝承する『神社略記』によると、大化元年(645年)に表米宿禰命(ひょうまいすくね)が丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した。沈没しかけた船を、大海龍王が、アワビの大群を用いて救ったと伝わる。赤淵神社は日下部氏が奉祭する。
663年(天智2年)8月には、倭国は百済の救援のため、朝鮮半島で新羅連合軍と白村江の戦いを戦うが、敗北する。
天智天皇7年(668年)、新羅の僧沙門道行草薙剣を盗みて新羅に逃げ向く。而して中路にて雨風荒れ、迷いて帰るという草薙剣盗難事件が発生している。

 
・弘仁3年(812年) 弘仁の新羅の賊
 

 
・弘仁4年(813年) 弘仁の新羅の賊
 

 
・弘仁11年(820年) 弘仁の新羅の賊
 

 
・弘仁4年(813年) 弘仁の韓寇
 
 
・弘仁11年(820年) 弘仁新羅の乱
 
・貞観11年(869年) 貞観の韓寇
 
・寛平5年(893年)および寛平6年(894年) 寛平の韓寇
 
 『日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本長崎壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。
 893年5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。
 
 翌894年4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、参議藤原国経を権帥として下すなどを定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説にの関与を窺うためであったともいう。同年9月19日、大宰府飛駅(はやうま)の使が突如征伐の成功を伝え、遣唐使も中止された(翌年9月にも壱岐島の官舎が賊のため全焼したことを伝えているが、これはおそらく本年度のこととみられる)。
 寛平6年(894年)、唐の将軍も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に侵攻を始めた。
 
 9月5日の朝、対馬守文屋善友(ふんやよしとも)は郡司士卒を励まして賊徒45艘ををかまえた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。
 
 捕虜がいうには、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。
 
 翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた。
 
 
 
 
・延喜6年(906年) 延喜の新羅の賊
 
 
・長徳三年(997年) 長徳の入寇
 

 
・寛仁3年(1019年) 刀伊の入寇(刀伊とは高麗の支配下にあった満州族の一派)

・文永11年(1274年) 文永の役(元寇)(文永の役は高麗軍が中心となった侵略)
 

 
・元中6年(1389年) 戦艦300艘による高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻
 
 
・応永26年(1419年) 応永の外寇
 
 

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る


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